約5%の人が、LGBTというデータがあります。日本の人口で言うと約680万人。Lは、レズビアン。Gは、ゲイ。Bは、バイセクシュアル。Tは、トランスジェンダー。多様な「性」が当たり前で、セクシュアルマイノリティが「ふつう」な社会にしていくために。私たちは、勇気をもってカミングアウトしているLGBTの人たちの「思い」を写真と記事で伝えていきます。そして100人集まった段階で、写真集として出版していく予定です。
PHOTO・TEXT:藤元敬二
大阪府にある自宅マンションでパートナーの吉田昌史さんと寛ぐ南和行さん。
マンションの自治会で管理人も努める南さんは、近所からの信頼も厚い。
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南和行
38才
弁護士
Q.いつカミングアウト?
20歳の頃、父親の死に際して母に。
異性との結婚を望んでいた母は、受け入れを拒否。
パートナーである吉田さんを母に紹介すると、 意気投合しギクシャクしていた関係が解消した。
従来の弁護士のイメージからはかけ離れている、というのが最初の印象だった。もちろん月曜日の朝にお邪魔した自宅で彼が寝間着姿だったということもある。しかしプライベートではピアノを奏で、多忙な時間の折りを見てライブ活動を行い、絵を描き、パートナーとパンダごっこ
※1をするのが趣味だという話を聞いた時、妙に納得ができた。社会の求める型に自分を順応させていくのではない、自分の求める居場所を社会に創り出していく人なのだと。
「将来は弁護士だけではなく、ミュージシャンやイラストレーター、講演活動や原稿の執筆など、自分の内面を発信していく仕事も今まで以上に積極的にやっていきたいですね」と話す南和行さんは大阪生まれの三十七歳。私生活のパートナーでもある吉田昌史さんと二人で地元大阪に法律事務所を経営している。普段は弁護士としてLGBT関係の仕事はもちろん、戸籍や家族の問題にも積極的に携わっている。「弁護士五年目にして興味がある分野に関わる機会が増えて来ました。そこに関わることで
自分の問題意識を社会に反映できます。それが現在のやりがいなのかもしれませんね」
二十歳の頃に決行したカミングアウトを巡っては母との葛藤もあった。当時、父を亡くしたばかりだった南さんは、遺産の話をする中で母が異性との結婚を望んでいるという強い思いを知った。暗黙の了解を理由に隠し続けていた自身の性だったが、それだけでは何も伝わらないことを実感しカミングアウトを決意。蓋を開けてみると「受け入れるのには時間がかかる」と母は泣き崩れた。しかしカミングアウトは南さんにとって一生を左右すること。中途半端な妥協をするわけにもいかない。当時、兄や兄
の彼女、母の友人達はおしなべて南さんに同調し母の説得に協力してくれたそうだが、母にはまだ時間が必要だった。
その後、南さんが大学院で木材工学を専攻していた二十四歳の時、インターネット掲示板を通して現在のパートナーである吉田さんと出会った。「気取ったところがなく、生活感覚や価値観が合った」という彼らはすぐに付き合い始めた。当時まだぎくしゃくしていた母との関係は、吉田さんがきっかけで好転し始める。母が彼のことをとても気に入り、二人の関係を優しく見守る様になってくれたのだ。
卒業後、一度はサラリーマンになった南さんだったが、元々弁護士をしていた死んだ父や、弁護士を目指していたパートナー・吉田さんの影響もあり、自らも法科大学院に通い始めた。最初に合格を果たしたのは吉田さんだった。しかしそんな吉田さんが体調不良により退職、南さんも依然挑戦の日々が続き、二人の将来に展望が見えず絶望的な気持ちになったこともあったという。そんな苦境を寄り添うことで乗り切り、南さんも二年後には見事合格を果たす。二人で事務所を持つという夢に一歩近づいた彼らは2011年に結婚式を挙げた。その場には満面の笑みで二人を祝福する母の姿があったそうだ。
私生活も順風満帆な中、去年一月には吉田さんと共に大阪市北区に『なんもり法律事務所』を設立。日本で初めての氏名を公表したゲイカップルによる法律事務所はセクシャルマイノリティーの駆け込み寺となり、遠く東日本からも多くの人々が訪れるようになった。「恋愛感情を持つことや性的欲求を覚えることは人の本質。それを法律や体制で否定し続けることは、憲法で保証されている本質的な自由や平等から外れたことです。しかし保守傾向の強い最近の政治の中で少子化対策のニュースを見ていると、結婚しない人が悪いとか、それこそ強制的にセックスさせて子どもを作ろうというくらいのものを感じます。そういう時に子どもができない枠組みで結婚生活を営む同性婚を積極的に弾圧する社会にならないよう、今後も僕達のできる法的援助を行っていこうと思っています」
南さんには大きな夢がある。世の中には施設などで親の愛を知らずに暮らす孤独な子ども達がたくさんいる。その様な境遇に暮らす子どもの親代わりになりたいと考えているのだ。「残す程の財産もないけれど、僕たちの間には愛情が溢れています。その愛情を家庭を欲する子ども達に傾けてあげたいんですよね」
優しい表情で話し終えた彼は、最後に歌を歌ってくれた。
『輝いた夏の日は どこにもないけど 煙突が煙に滲む美しい毎日
夕焼けの西の空 自転車で行けば 胸の中熱くなって口笛で歌うよ
あの時に見た空は奇跡の色だった 紫とオレンジが静かに暮れ行く
またいつか こっそり 探しにきてみよう
海の匂いに包まれた 帰らない夏の日』
(作詞・作曲:みなみかずゆき『港のフォークソング』
※2より一部抜粋)
輝いた過去、そして覆い隠したくなる過去は誰にでもある。全てを受け入れて明日に突き進む姿が少し眩しく感じた朝だった。
※1:まるで赤ちゃんパンダがじゃれあうように、服を着た状態で、ベッドの上で絡み合いながら甘噛みをしたりこづき合った
りすること。
親しい友人達や家族に囲まれて壇上を歩くセイヤさん(左)とパートナーのタクヤさん(右)。二人の意向で人前式の形をとった式には多くの一般参加者達も訪れた。
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セイヤ
22才
学生
Q.いつカミングアウト?
東日本大震災の直後、福島の実家で。
10日後、バラバラになっていた家族全員が 集まった時に、勢いでカミングアウト。
しかし家族みんなが昔から その事実を知っていたと逆に告白された。
6月13日、東京、青山迎賓館。午前中に訪れた通り雨が去り、澄みわたった陽光の下で二人の男達が祝福を受けていた。
※1かつては同性愛者同士の挙式が公の場で催されることなど考えられなかった日本で、ゲイカップルが祝福される。時代は確実に変わっている。
セイヤさんと、パートナーのタクヤさんは元々同じマンションに住む隣人同士だった。当時はお互いにパートナーがおり、時々すれ違う程度の仲だったそうだ。やがてお互いに別れを経験した二人は、SNSをきっかけに再会することになる。何度かデートを重ねていくうちにセイヤさんは『しっかりと自分を持ち、社会的体裁を兼ね備えた』タクヤさんの姿に惹かれていったそうだ。
「僕たちにとって、大切な友人達や家族に認めてもらう為に人前式を挙げたいというのが一番の気持ちでした。そしてこの式が日本での同性婚合法化に向けての議論のきっかけとなれば嬉しいです。実は今、区や市の動きでパートナーシップ制度が色々動いているんですね。そのパートナーシップ制度は同性間でも出来る様に様々な自治体が頑張ってくれているので、実現したら僕たちもそうした制度に登録したいと思っています」自身の通う大学のホールに座るセイヤさんは周りの耳を気にすることなく語り続ける。
「当事者でありながら、他人事の様に同性婚を見ている同性愛の人達はたくさんいます。僕たちが挙式を公開することによって、そういう人達に考える機会を持って欲しかったんです。結婚しました、パートナーシップ登録をしました、ということを世間に発信したら、同性婚はまだ合法ではないにしろ、パートナーシップというやり方もあるんだと考えてもらえるし。僕たちをきっかけとして、8年、10年と付き合っている人達に『パートナーシップ登録するのが素敵だな』と思ってもらえればいいと思うんですよ」
福島県生まれの22歳。公務員の父と、敬虔なカトリック教徒の母の元に3人兄弟の末っ子として生まれたセイヤさんは幼い頃から牧師になることを期待されて育った。そんな期待とは裏腹に、性を意識し始めた中学校の頃にはゲイであることに気がつき、自責心に苛まれていたそうだ。先輩も手本もいない。インターネットで見つけた仙台のゲイショップに足を運んだのは中学生の頃だった。初めて手に取ったゲイ雑誌は、彼の心に東京への憧れを芽生えさせることとなる。
「だれか東京を案内してくれませんか?」淡い思いはいつしか行動となって表れ始める。中学最後の春休み、お小遣いを貯めて両親に内緒で向かった東京で、一人の男性と知り合うことになる。男性は当時授業をさぼりまくっていたセイヤさんに勉強の大切さを説く。「東京に興味があるなら、勉強をした方がいい。東京の高校に来るという選択肢もあるんだよ」そんな男性の言葉から東京進学を決断し、休み時間も惜しんで勉強を始めた。成績は目を見張る様に伸び、一年後には志望校への合格を果たし上京した。初めての彼氏となった男性と付き合い始めたのもその頃のことだそうだ。「彼を含め、今まで付き合ってきた人達に教えてもらったことや経験が、僕にとっての一番の財産です」
2011年3月11日。大学浪人を決めたセイヤさんが実家に帰省した直後、福島県を東北地方太平洋沖地震が襲う。父母は事後処理で職場に籠りっきり。兄は暴走する原発の近くから帰って来ない。飢えや冷えで苦しむ人々が溢れるなかで、家族もバラバラになっていた。10日後にようやく家族全員が集まった時、セイヤさんの体からは疲労と不安で感情が溢れ出していた。「どうせオレの気持ちなんてみんなにはわからない。オレはゲイだから」気持ちに任せてカミングアウトした彼であったが、家族はみんな既に知っており、昔から彼のことを受け入れていたそうだ。それでも感情の収集がつかなくなっていた彼はしばらく部屋に籠ったりしたが、言いたいことを出し切った心の中はスッキリとしていたそうだ。「彼氏に会いに行ってくる、なんて話も気軽に出来る様になって、ものすごい楽になりました」
現在、セイヤさんは大学の教授と共に立ち上げた青山BBラボ
※2で活動をしている。彼以外全員がストレートだというラボでは、LGBTを含む多様な価値観に寛容な社会の実現を目指して、クリエイターを中心に様々なゲストスピーカーを招き、勉強会やシンポジウムを開催しているそうだ。「僕たちは、LGBTの人達のみでかたまって自己完結するのではなく、ストレートの人達を巻き込んで、彼らをアライとして活動していきたいと思っています」
性別に限らないたくさんの人々との付き合いは、経験を膨らませて夢を具体化させてゆく。「ちょっとバカみたいにですけど、子どもがいて、一軒家に住んで、子どもにおしゃれさせて、習い事とかもさせて、学校にゲイの子がいてもからかわれることなく、先生もゲイだけど普通に暮らしてるみたいな、そういうのが当たり前の世の中になればいいですね。将来は僕もその動きを作る一人になれればと思っています」
自治体に於けるパートナーシップ制度の実現が迫り、LGBTを取り巻く環境が変化の時に差し掛かる今日、若き力への期待は大きい。
※2:2020年オリンピックの東京開催を視野に、女性や子供たち、外国人、LGBTもそうでない人たちも、みんなが居心地よく共に暮らし、働くことのできる、創造的で多様性豊かな社会のあり方について考える、学生と社会人による、LGBTアライを目ざす任意団体。[青山BBラボ公式facebokページ]
https://www.facebook.com/aoyamabblabo[青山BBラボ公式twitter]
https://twitter.com/BBLAB_AGU
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HIROFUMI
32才
会社員/バー店員
Q.いつカミングアウト?
20歳の頃。
同僚で親友でもあった女性に夜の公園で告白。
「好きなら男も女も関係ない」という彼女の一言に勇気をもらい、
他の友達にもカミングアウト。
ビジネス街や歓楽街、はたまた日本の中心地と知られる新宿。メイクを整え歌舞伎町へ向かう彼女達や仕事を終えた彼等の雑多を通り抜け、新宿二丁目のゲイバー
※1で働くヒロフミさん(32)を訪ねた。
仲通りを歩き小道を入った場所に店はある。開店前の午後6時、既にお客さんを迎える準備が整っているのであろう。整理が行き届いた店内ではお酒のボトルと共に男性美を競い合う写真集の数々がライトアップされていた。
「ちょっと飲んでいいかな?」ボトルの底に残ったワインを自らのグラス注ぐヒロフミさんは東京生まれ東京育ち、兄と双子の姉を持つ3人兄弟の末っ子だ。東京のゲイバーで働き始めて実質2年、当初は戸惑うことだらけでだったが、一人でたまに店を任されるようになると仕事に喜びを感じる様になった。しかし同時に30歳という年齢を超えた頃、一つの不安が生まれてきたそうだ。「同年代の友達をみていると、家庭を築いて将来に向けて貯蓄をしている。自分は果たしてこのままでいいのだろうか?」
「人生はこの先長いんだし、今1、2年勉強なりの期間を設けてもいいんじゃない?」常連さんの一言で気持ちは決まった。会社に就職したのだ。現在では平日は会社に勤めながら、週末にはバーでの勤務を並行してやっている。「俺には何かを打破する様な突破力はない。ゆっくり積み上げれば成功する様な気がするんだ」
そんな彼のカミングアウトは20歳の頃だった。それまでにもネットを通じて知り合った男性と付き合った事はあった。しかし自らのセクシャリティーを第三者に告知することには、ただならぬ勇気が必要だった。相手は当時の同僚であり、親友でもあった女性を選んだ。積極的で物怖じしない双子の姉を持つ彼にとって、姉を彷彿させる様な存在感を持つ彼女は特別だったのだ。その日、いつもの様に仕事を終えて夜の公園でブランコに揺られていた彼は話を切り出した。「君のことが好きということではないんだけれど、いや友達としては大好きなんだけれど、、、」彼女は同じ言葉を繰り返す彼を不思議そうに眺めていたらしい。 しかしカミングアウトの後には「好きなら男も女も関係ないんだよ」と何とも頼もしい彼女。 当時衝撃的だったというこの言葉から力を得た彼は、後日ほかの親友達へも告白をした。みんなあっさりと受け入れてくれたそうだ。
23歳になったヒロフミさんは、大好きになった彼氏と神戸で同棲を始めていた。その後も大阪、名古屋で過ごした計7年間、幾つかの恋愛を通して人生の酸いも甘いも知ったつもりだった。そんなある日、東京に戻ってゲイバーで働き始めていたヒロフミさんの元に一つの知らせが届いた。元彼の自死だ。1Kに同棲した29歳の半年間、彼は自暴自棄になっていた当時のヒロフミさんを一生懸命に愛してくれた。別れて一月後に知った彼の死で、何のやる気も起きなくなってしまった。手が震える。人が怖い。電車に乗るときには必ずサングラスをかけた。仕方がないとわかっていながらも、ひたすら後悔を繰り返した。仕事中には感情を隠しても、一人になるといつも涙が流れていた。引きこもっていた半年の間、しかしながら、店のみんなからの助けもありヒロフミさんの体調は徐々にだが回復をしていった。「その経緯を知ってるからみんなは僕が復帰したことを喜んでくれていて。だからありがたいんだよね、このお店は」
開店時間が迫っていた。「人に優しい社会であってくれればうれしいけど、個人的には自分の世界の人達が幸せであってくれるとうれしいかなあ」とヒロフミさん。
「今までお世話になってきたお店のみんなの為にも、『息子の分まで生きるのが君の役目だ』と言ってくれた元彼のご両親の為にも、自分が少しでも成長して、将来何かの形で恩返しができるようになりたい」。そう言い終えると、立ち上がった彼は店内の照明を少し落とした。
今日も店は始まる。
※1:”男と男を、ゲイとストレートを、文科系と体育会系を、そして人と人を繋ぐ架け橋のようなお店”をコンセプトに、マスター・岸田光明さんが2007年9月に新宿2丁目にオープンしたゲイバー・Bridge。
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バブリーナ
34才
タレント/LGBTポータルサイト「2CHOPO」編集長/ドラァグクイーン
Q.いつカミングアウト?
家出中に部屋にあった男性写真の切り抜きを母親が見つけて。
「友達が死ぬことが一番辛い。」午後8時、日曜日のファミリーレストラン。気の置けない友達と喋っている時が一番楽しいと話すバブリーナさんは、今年5月に亡くなった親友の真崎航さん
※1を思い出していた。ドラァグクイーンやタレント活動に加え、ポータルサイト2CHOPO
※2での編集長も務めるバブリーナさんは、同サイトから真崎さんへの追悼文を出筆した。「彼のことを少しでも多くの人達に伝えたかったし、それを通して自分の心に整理を付けたかったのかもしれません」
元々福岡の田舎に育ったバブリーナさんは、幼少の頃からロボットよりもぬいぐるみをねだり、母や祖母のスカートを履いたり、口紅を塗って遊んでいたという。高校生の頃に、母との喧嘩を機に家出をして東京へ向かった。行き先はテレビドラマ『同窓会』
※3で知った新宿2丁目と決まっていた。辿り着いたものの、知り合いも居なかった彼に行き場はなかった。そして夜中に一人で2丁目の本屋や公園を行き来していたところを男性に呼び止められる。そのまま男性と同棲を始め、アルバイトを始めた。男性からの連絡で母が仕事先に現れ、手紙を残していったのはそんな矢先のことだったという。
上京を認めてもらう為に福岡に帰省すると、自分の部屋に隠してあった好きな同級生の写真を撮りまくった男だらけのアルバムや、裸の男性の雑誌の切り抜き、同人誌のゲイ漫画などは綺麗に整頓してあった。それらを確認した母は「あんたの好きな様に生きなさい。」と、上京を認めてくれたそうだ。
最近バブリーナさんには考えさせられることがある。18歳で始めたドラァグクイーンの仕事。当初はただ自己顕示欲を満たす為にやっていた。その後、師匠の様に慕うブルボンヌさん
※4の影響もあり、イベントオーガナイズやテレビ、編集の仕事にも挑戦した。それらを通して様々な職種のプロ達と向き合うことも増えていったそうだ。今では新宿2丁目を基軸として、様々な分野に進出していけることに喜びを感じているという。「この瞬間にも新しく女装する子達が出てきています。私が同じ場所にいたら、その子達に出番はありません。私に求められていることは新しい畑を耕していくことだと思っています。」
「あんた、結婚せんのね?」 女装姿でテレビに出る様になったある日、心のどこかで諦め切れていなかったのであろう母は突然聞いてきた。「結婚できないし、孫の顔も見せてあげられない。ごめんね。」と改めて伝えたバブリーナさんに、母は笑顔で言った。「じゃあ永代供養できるお寺、探さんとね。」
質問が将来の不安に至った時、バブリーナさんは遠くを眺める。孤独死への不安だ。ロールモデルの欠ける同性愛の世界では、どの様に将来を考えていいのか分からなくなることもよく有るという。「とはいえ私が死んだら母の面倒を観る人もいなくなるし、友人達の死を通して命の大切さを考える機会も増えました。結局一人で生きてはいけないのだし、周りの人達と共存していかなければと感じています。」
バブリーナさんは今年、各政党へのアンケート調査を行った。ほとんどの政党からはLGBT政策についてのポジティブな返答を頂いたそうだ。”声があがらなければ動けない”との自民党からの要請に答える為にも、今は沈黙しているより声を上げ続けていきたいと感じている。「LGBTは歴史的に変化の時期にあると思います。今後は自らタイミングを作ることに携わっていけたらと思っています。」
日陰で積み上げて来た経験達を、陽光が照らし始めている。
※1:1983年生まれのゲイビデオ男優。日本国内のみならず、台湾、中国、タイなどでも人気を博した。2013年5月に播種性血管内凝固症候群に依って死去。
※2:新宿2丁目を中心としたLGBTカルチャーにおけるエンタテインメント、社会、生活情報などを発信し、多様な価値観をナビゲートするLGBTポータルサイト。バブリーナさんが編集長を努めている。
(http://www.2chopo.com/)
※3:1993年に日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ。男性同性愛やバイセクシュアルをテーマとしており、ゴールデンタイムに於ける連続ドラマとしては初めて同性愛を本格的に扱った作品。
※4:1971年生まれの女装パフォーマー。タレント活動、雑誌への連載、情報サイトの管理、ゲイイベントへの出演や新宿2丁目「Campy!Bar」のママなど、その活動は多岐にわたる。
012
トク
44才/土木建設業
Q.いつカミングアウト?
10年程前。
同性愛サイトへのアクセス履歴を弟に見られて告白。
「兄さんも人だったんだね」と受け入れてくれた。
土木業を営むトクさんがゲイであると気づいたのは思春期の頃だそうだ。告白することはタブーであると思っていた。周りの同僚達が結婚して家庭を築いていくなかで、30代半ばまでは何度も見合いをしたが、結婚に踏み切ることはできなかったそうだ。
トクさんに転機が訪れるのは10年程前、IT関係の仕事に就いている弟が使わなくなったパソコンを実家に置いていった時であった。「おそるおそる触れたキーボードでゲイという文字をタイプしたことが自分自身へのカミングアウトだったのではないだろうか」トシさんは当時を振り返る。
やがてネットを通じて一人の男性と知り合うことになる。トクさんと同じ30代半ばの彼はやはり結婚を迷っていた。同じ様な境遇で 孤独に生きていた2人はやがて惹かれ合う様になる。
そんなある日、実家に帰省していた弟がネット履歴を検索して同性愛サイトへのアクセスを見つけた。理由を聞かれたトクさんは迷ったが告白をした。弟は「兄さんも人だったんだね」と笑ってくれたという。それを機に、一緒に暮らす母や、職場の同僚何人かにカミングアウトをした。みんな受け入れてくれたそうだ。「彼がいなければ言えなかっただろうね」トクさんが当時を振り返る。
そんな交際も5年前に彼の結婚を 機に終わることになる。その後も付き合った人はいたけれど長続きはしなかったという。共に暮らす母の介護が現在の生き甲斐の一つになっている様だ。
「不安なことはたくさんあるけど、そういう時は酒を飲むのさ(笑)。
僕はもう若返れないけれど、もし甥っ 子がゲイだとして、将来同じ問題を抱えるのはやっぱり悲しいね」そう言って笑う彼の日常は、いくつもの影と共存している様に感じた。
016
タケシ
22才/販売業
Q.いつカミングアウト?
カミングアウトしていません。
っていうか、その必要がない。
メイクやしぐさでみんなわかってると思うから。
「今日はよろしくお願いします」地方の名家に育ったという彼のあいさつは、体に入ったタトゥーの印象とは違う、ずいぶんと落ち着いたものだった。
都内で販売業を営むタケシ君は現在22歳。元々温厚な性格だったという彼は幼い頃から人ともめることはあまりなかったそうだ。
「一人っ子というプレッシャーがあったので、学生の頃は色々な葛藤がありました」
地元にいると流されしまいそうだと感じた彼は、高校卒業を機に大阪に出て飲食店で働き始めた。そんな彼にある日一つの事件が舞い込む。宿場である彼の部屋の引き出しで、同僚が化粧品を見つけたのだ。口に出して罵られる様なことは無かったが、その日から話しかけてくる同僚はいなくなったそうだ。そんな生活で精神状態を来した彼は、20歳で上京することになる。
とにかく自分のことを知らない人達がいる所に行きたかったらしい。「正直どんな社会になるかは期待していません。私のことを笑う人は、私を笑えなくなったら今度は他の人を笑うと思います」彼は言い切る。
東京の職場ではあまり性のことは気にされていないと話す彼だが、道端でメイクを揶揄されることは今でもたまにあるそうだ。
現在タケシ君が好意を寄せる男性には彼女がいる。「彼女がいるかいないかはどうでもいいんです。私に向かって笑ってくれるだけでうれしい気持ちになるんで」真面目な顔が一瞬緩んだ。性別に関わらず恋愛 で問われているのは結局同じところ、相手をどこまで想い続けられるかという自分自身なのであろう。
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ツトム
21才/大学生
Q.いつカミングアウト?
最近。
最近つき合い始めたボーイフレンドのことを大学の友人たちに告白。
おかげで男性からも女性からも恋愛相談が増えた。
都内で大学に通うツトム君は今年21歳になった。中学生の頃には自分が男性に興味を持っていることを自覚していたが、何となく年齢と共に消えて行くのではないかと思っていたという。
周りの友人がクラスメイトに初恋をしていた頃、彼は近所の建築現場で働く青年が気になっていた。仕事姿が見たくていつも建築現場の近くで遊んでいたという。結局、年齢も生活環境も違う彼の思いは伝えられることはなかったが、今でも素敵な思い出なのだそうだ。
現在、ツトム君には付き合って3ヶ月になる初めての彼がいる。出会いはカンボジアだった。夏の一ヶ月を使い東南アジアを旅行していた祭に、安宿のドミトリーで出会ったのだそうだ。彼はツトム君と同じ様に東南アジアを旅している大学生で、息の合った2人はその後一週間を共にすることになる。そしてツトム 君が日本に帰る前日、公園で告白したという。
帰国後、ツトム君は付き合い始めたことを親しい友人達に話した。最初は驚いていたが、今ではみんな理解してくれているそうだ。告白のおかげで両性の友達からの恋愛相談も増えたという。「ずっと一緒にいたいけれど、権利の上では一緒になれないという不安はもちろんあります。僕たちにも 同等の権利が与えられるべき社会が理想だと思っています」ありふれた言葉だが、長年憧れていたものを手に入れた青年の口から語られるそれは特別な響きを持っていた。
【藤元敬二(フォトグラファー)】1983年生まれ。広島県出身。米国州立モンタナ大学卒業後、ネパール、中国、北朝鮮、タイなど世界各地でのドキュメンタリープロジェクトを制作、発表している。賞歴に上野彦馬賞・日本写真芸術学会奨励賞、ゴードンパークス国際写真コンテスト・グランプリなど多数。